狭量・春眠・ブラックホール
春の空気は得意ではない。
花粉症が酷すぎて連日鼻水が止まらない。心なしか空気中に花粉が靄のように舞って霞んでいるように感じる。
人が可愛い春服を着て桜を見上げスマホで写真を撮り愛でる間、
私や同年代は黒服を着てスマホを見つめ操作し続ける。
春は別れと出会いの季節だと腐る程聞いてきた。でもそれよりももっと奥深く、意識の下で、なにかが大きく交錯しているように感じるのは私だけなのか。
先日霞ヶ関で私は底知れない自分の小ささと、小ささの中に収まりきらない程大きな感情を爆発させた。
比喩ではない。確かに私は人より小さいけれども、キャパシティがここまで小さくていいものかと思う。
花粉症が突然発症するのは、自分の花粉に対するキャパシティから超えてしまったから。一度発症すれば二度と治らない。
では、心のキャパシティは、一度超えたら二度と治らないのだろうか。
決壊したダムの水は川へ海へ流れる。
では決壊した心の思いはどこへ流れるのだろう。どこに溜まるのだろう。蒸発でもしているのだろうか。いや多分、循環しているんだろうな。
春は人が優しくなるのだろうか。
よく言えば軽やか、悪く言えば浮ついた空気に人間の心の思いも蒸発でもしているのか。
1人ダムを溢れさせている私は、疎ましくて不甲斐なくて悔しくて悲しくなる。
春は、優しい空気が苦手だ。
インスタグラムに並び続ける桜を見て、早くただの名もない木に戻って欲しいと思いながら、花びらのように溢れる思いと涙に散らしていく。
ところで、桜を食べると微妙な味がするが、誰が最初に食べようと思ったんだろう。
桜は愛でるのではなく吸収してしまえ。
私は桜と闘うしかないのだ。